オリーゼ誕生物語 第三章
第三章 創業者の人生哲学 其の三
父の販売方法は〝昔とった杵柄〟で、自慢の浪曲を聞いてもらい、引きつづき『オリーゼ』の説明をしてお客さまに買っていただく、という巡業販売で、招かれれば全国、どこへでも気軽に出かけて行きました。浪曲だけではなく、漫才や舞踊、手品などの演目もあるという一座を組んでの巡業でした。父は浪曲師であるだけでなく、座元でもあったわけです。
しかし残された家族は大変です。巡業先から『オリーゼ』を送れと連絡がくると、厳重に梱包した荷物をリヤカーで国鉄(現JR)の駅まで運び、チッキ(鉄道小荷物)で巡業先まで送る。リピートに対しては郵便小包の「郵便販売」。通販の始まりではなかったでしょうか。時には、まだ少年だった私が直接、父の巡業先に届けたこともあります。
会場は田舎のお寺や公民館です。各地にできはじめた市民会館も会場となりました。西本願寺で公演したこともあります。開演前から大勢のお年寄りが詰めかけ、それこそ立錐の余地もないほど。後日、『オリーゼ』を求めたお客さまから「おかげさまで元気になりました」と涙でにじんだ手紙が届くことはしばしばでした。『オリーゼ』の力を知っている父は、こういう手紙が来るのは当然だと思っていたでしょうが、やはりこれが励みとなって次の巡業地に向かわせられていたのだろうと思います。子ども心に、私もお礼状を読むのが大好きでした。
『オリーゼ』の産湯につかったも同然の私なので、父の跡を継いだのは自然の成り行きです。高校3年生のとき、何かの本を読んだのだと思いますが、大阪で機械展が開催されることを知り、一人で出かけていって、当時はまだ粉末だった『オリーゼ』を顆粒にする機械を独断で買ってきたことがあります。粉末の『オリーゼ』は、湿度などの自然環境によって変質しました。品質が悪くなるというのではなく、発酵がすすみ過ぎてしまうのです。高校生なりの頭で、品質を安定させることの必要性をつねに考えていたのかもしれません。父は無謀な私の行動を怒りませんでした。
やがて、巡業先の会場に訪れるお年寄りの姿がめっきり減ってきました。高度経済成長を経て日本が豊かになるにつれ、会場に足を運んで浪曲を聞いたり舞台芸を見るより、もっと手近に娯楽が得られるテレビが登場し、ゲートボールや温泉旅行など、お年寄りの遊びの選択肢が増えてきたからです。私が「そろそろ巡業をやめようか」と言っても、父は聞きません。自分の芸にも『オリーゼ』にも、自信があったからでしょう。
父自身も50歳のころ、巡業での気苦労が重なり、体調を崩しました。キリで突かれるような、背中じゅうを走る痛みに、父はのたうち回っていましたが、オリーゼを大量に飲み、それ以来、すっかり元気になりました。身をもって体験したわけです。
頑固な父が現実を受け入れ、きっぱりと巡業をやめたのは10年ほど前のこと。『オリーゼ』の製法は一子相伝で私が受け継ぎ、巡業販売に代わって私は新たに通信販売への挑戦を始めていました。創業者である父の信念と『オリーゼ』をしっかりと受け継ぎ、妻・小百合と二人三脚を始めた私を心配そうに見ていた父ですが、平成17年6月、91歳で他界しました。
父が最後まで切望していたのは、「もっと多くの方にオリーゼを使っていただきたい」ということです。「きっといい結果が得られるはずだ」と。創業者の生前にはかなえられなかった願いですが、必ずかなえられる日が来ることを私たちは確信しています。

▲虹の松原のマツ林

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