オリーゼ誕生物語 第二章
第二章 『オリーゼ』が生まれるまで 其の二
浪曲というのは、歴史的に三つの段階に分けられるのだそうです。第1期は江戸中期から明治初年までの「チョンガレ」と呼ばれる時代。第2期は明治期から大正末までの「浪花節」隆盛時代。第3期がラジオ放送が始まって「浪曲」と改称した昭和の時代です。昭和7年のラジオ番組人気調査によると、1位が浪花節(浪曲)で全体の57%を占めたそうです。2位は講談。以下、落語、人情話、民謡と続きます。
大正3年生まれの父が大阪に出たのは15歳のときですから昭和初めのちょうどこのころ、浪曲全盛時代でありました。父は筑波武蔵のもとで修業を重ね、「小武蔵」の名で舞台に立つようになります。「小武蔵」となってからは、自分で「マハトマ・ガンジー伝」や「親鸞聖人伝」などのオリジナル台本を書き、義侠物、戦記物、人情物が多い浪曲界の中で〝文芸浪曲〟という新境地を開いております。
父の自慢話をいつも面白がって聞いていた私ですが、のちに大阪まで出かけたとき、大阪時代の父の知人に話を聞いたことがあります。父の自慢や思い出話は本当でした。
〝文芸浪曲〟は意外なほど評判をよび、父が舞台に立つ日は多くの客が集まったそうです。
大阪という土地柄と浪曲界がよほど肌に合ったのか、大阪時代の父はいきいきと輝いていた。革の半靴(ブーツ)で道頓堀や通天閣界わいを闊歩していたらしい。義理人情に厚く、度胸もあった。麻酔なしで盲腸の手術をしたという武勇伝も聞きました。半面、文芸浪曲を創作するくらいですから純情で一途な面もあり、〝大阪の太閤さん〟と呼ばれて人に好かれていたようです。
〝芸は身を助ける〟と言いますが、父の場合もそうでした。父をとても気に入ってくれた人のなかに長崎出身のカフェのママがいました。高級会員制クラブのようなカフェで、将校クラスの軍人や著名人が出入りしていた。ここのママに気に入られ、ついにママの養子となって、嫁も迎えております。
カフェのお客のなかに伯爵の鷲尾隆信さんという人がいて、のちに父は伯爵の命名で「小武蔵」から「大宮歌右ェ門」と名を改めております。「大きな鳥居の下で歌うように語りなさい」という励ましでもありました。その伯爵の紹介で、父は発酵学の権威・大阪大学農学部教授の片山庄司先生と出会ったのでした。
ママの旦那が某酒造メーカーの社長だったことから、父は浪曲を続ける一方で、今度は酒を売りまくったそうです。昭和10年代、軍靴の音高まる中、国内は次第に物不足となり、酒も統制品となっていました。酒は売れに売れて、父は大いに儲かったらしい。その余力で、研究費にも事欠いていた発酵学の片山先生に資金援助をすることで、父と片山先生の関係はぐんと深まりました。
勉強したくても、ろくに学校に通えず、農家へ奉公の少年時代を過ごしていた父ですから、たまに訪れる片山先生の大学研究室や自宅の書斎は憧れの的。足繁く通うようになった父に対して片山先生もしだいに心を許し、問わず語りに酵素の話など発酵学の基礎的な話をされるようになった。顕微鏡をのぞかせてもらい、麹菌の花のような美しさに目を丸くした日もあったことでしょう。
やがて父は、戦火のなかで最初の妻を肺結核で亡くします。人を元気にしてくれる酵素について学び始めていた父は、もっと早く酵素について知っていれば妻を死なせることはなかっただろうと、酵素の勉強を一段と深めていきました。片山先生の部屋で聴講生や助手のようにして過ごす時間だけが、妻を失った哀しみと寂しさを紛らすひとときであったのかもしれません。
父は、片山先生の指導のもと、ついに『オリーゼ』を生みだしたのでした。

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